なぜ音楽は社会問題の認識を広めるのに意味がないか
こんにちは!
今日は、ヴィオラ演奏専攻の同僚が、大学のオーケストラのコンサートに誘ってくれたので、応援しに行きました!
席についてプログラムを開いたら、なんとその人がプリンシパルプレーヤーの一人だったのです!
前からすごいと知っていたのですが、まさかこんなにすごい人だったとは…
早くサインと写真をもらわなければ!笑
演奏した曲は、Haydn Symphony No. 101 in D Major, Hob.I:101、Beethoven Coriolan Overture op.62 と、Prokofiev Symphony No.1 in D Major op. 25 でした。
ハイドンとプロコフィエフは、まーまーだったのですが、ベートーヴェンはやっぱり迫力満載で良かったです!
指揮者なんか楽譜を覚えていたみたいで、譜面台を一番低くして、思いっきり手と腕を振り回していました。
さて、今日の本題に移りたいと思います。
今週の水曜日に、寮の仕事の関係で1つの講義に行ってきました。
お題は、Native American と Black American のアイデンティティが交差する時に視点を置いた講義でした。
また、Indigenous Hip Hop(ネイティブアメリカンのヒップホップ)というトピックにも触れました。
その講義を聞いていて、ちょっと疑問になったことについてを、ちょっと、今日は書きたいと思います。
音楽は、社会議論になっているトピックに物申すことができるのか
先々週に Beyoncé が Formation という曲をリリースしたように、昔から、音楽家の人たちは、社会問題のメッセージを歌詞に入れたりしてきました。
確かに曲というものは、感情移入がしやすかったり、広い範囲の人に受け入られているので、いろいろな人に聞いてもらえることは事実です。
でも、本当に歌詞を通して、歌手や作詞者たちは意見や思考を聞いている人にわかりやすく伝えられるのでしょうか?
まず、このことを考え出した時に1つの問題点だと思ったのは、音楽は時間に依存している芸術だということです。
例えば、皆さんは、何回曲を聴いたら、歌詞を覚えられますか?
曲にもよると思いますが、多分、一回聞いただけでは覚えられないと思います。
これが音楽を使って、意見を主張する問題の1つです。
いくら、オンラインラジオ、ポッドキャストや、他のサービスで音楽を聞いている時に、メッセージが強い曲がかかったとしても、よほどメロディーやサビが良くないと、歌詞を見る気にはならないと思います。
それで、そのまま次の曲へ進んでいって、前にかかっていた曲は過去になって、作詞者が訴えようとしていた意見は聞いている人の頭の中に残らないで無視されたままになるということです。
次の問題点は、メッセージが歌われているということです。
日本語でもそうですが、英語で話してる時は特に、相手や自分のアクセントが邪魔で伝わりにくいことがよくあります。
普段、しゃべっているだけの時でも伝わりにくいのに、歌だと一つ一つの単語がはっきりしてなかったりするので、もっと分かりにくくなります。
あと、歌にもアクセントや歌い方の癖が出てきます。
講義の時に、Native American の意見を主張している曲として、Frank Waln - What Makes The Red Man Red という曲が使われました。
この曲を聞いて真っ先に思いついたのが、Escape the Fate というバンドの歌手のアクセントと似ているということです。
Esape the Fate - Gorgeous Nightmare を例として載せます。
この関連性で惑わされるのは僕だけでしょうが、アクセントが似てるところだけが気になってしかたがなかったです。
Escape the Fate はパーティーし放題のバンドで、ほとんどの曲が薄っぺらいので、同じ人ような人が歌っていると勘違いしてしまうと、全然、曲を真剣に受け止められませんでした。
最後に思いついた問題点は、曲は限られたあらすじしか伝えられないということです。
スピーチなどでもそうですが、3分や5分という時間で、理屈をつけながら意見を述べていくのは、非常に難しいです。
それを歌は、脚韻など気にしながら構成していかないといけないので、さらに意見を述べられる機会が減ります。
その本当に限られたスペースで意見を言っていくと、具体的な理屈などが言えなくなります。
だから、根拠がない意見だという感じが丸出しにされます。
あと、音楽というものは芸術で、芸術は感情をさらけ出すことを重視します。
でも、意見を主張する時に感情が入ってしまうと、逆に説得力がなくなったりします。
だから曲を通して、社会問題に対して意見をするのはあまり効果的ではないと思います。
音楽のどこまでが Cultural Appropriation なのか
まず Social Justice にあまり興味がない方は、Cultural Appropriation という言葉に触れたことがないと思うので、ちょっと説明します。
Cultural Appropriation というのは、他の文化のある特徴を自分の文化で使うということです。
この文だけでは、ちょっとわかりづらいと思うので例を出します。
Coldplay の Hymn For The Weekend という曲のミュージックビデオは、インドが舞台となっています。
でも、実際にインドでは、いつも色のついた粉を撒き散らしたり、民族衣装はヘソ出しではありません。
インドが抱えてる問題を無視したり、民族衣装などを西洋風に解釈してセクシーにしたりしてることを Cultural Appropriation と言います。
講義の時に、ヒップホップ界のアーティストが Native American をけなした感じで真似しているという問題が出てきました。
例として出された動画がこちらです。
これも、Cultural Appropriation の一つです。
全く曲には関係ないのに、Native American の間違った格好をして、西洋風に Native American の踊りを解釈した踊りを踊っているからです。
でも考えてみたら、音学界では他の文化からリズムや音のサンプルを借りてきて、自分なりにアレンジして使うことが多いです。
その使い方で評価が上がったりします。
たとえば Madonna の Sanctuary という曲。
マドンナが歌い出す前のイントロのセクションで、笛のような音が聞こえます。
この元は、Herbie Hancock というジャズの音楽家がビールボトルで音を作ったのです。
でも、その Herbie Hancock は、アフリカ中部の民族の笛の使い方を見習ってサンプルを作りました。
要するに、マドンナはアフリカ中部の文化的な音をこの曲に取り入れているということです。
評論家からは、このサンプルの使い方は曲の雰囲気よくに合っていると絶賛でした。
ですが視点を変えてみると、この曲自体はアフリカ中部の民族と全く関係ないのに、その民族の伝統的な音を盗んで使ってることになります。
ということは、これも Cultural Appropriation なのではないでしょうか?
ちょっと講義を聞いてて疑問になったことです。
長々書いてしまい、すみませんでした。笑
意見やコメント、お待ちしています!